掲載 2009年12月21日

為清 勝彦

金融崩壊=言葉の崩壊の後に来るもの

「金融」のことを「信用」とも言う。融資することを与信と言ったりもする。「信」の文字は、「人」と「言」から成り、嘘を付かない、正しい言葉を使うという意味であろう。 そうしてみると、世界的な金融崩壊とは、人類が言葉を失うことを意味する。言葉は、人間社会の基盤であり、言葉を失ったとき、大混乱・無秩序は必至であろう。世界的に詐欺・欺瞞がまかり通っている今、我々は何が本当なのか既に分からなくなっている。政治家の空虚なスローガンに代表されるように、既に言葉は意味を失っている。それが先にあって、金融崩壊が結果なのかもしれない。

私には、これが歓迎すべきことなのか、憂慮すべきことなのかも、分からない。言葉というものが、本当に必要なのか、その功罪はどちらに軍配があがるのだろうか。

言葉というものは、実はかなりいい加減である。例えば建築の設計図が、図面ではなく、全て文章で書いてあるとすると、まともな家が建つだろうか? 膨大な文章量を費やしても一枚の設計図にはかなわないはずである。それを裏返して考えれば、言葉というものが、どれだけ(意図的でなくとも)誤解や混乱の原因となるか想像できるだろう。設計図には、言語の違いも関係ない。

我々は、言葉なくして、紙切れであったり、通帳の数字であったりするマネーに価値を感じることはできない。言葉こそが、世界の秩序を形成し、マネーによる支配を可能にしているのである。度重なる詐欺行為によって、その自らの生命線であるはずの言葉を、マネーカルト自ら潰そうとしている。これは自滅行為なのだろうか?

そうかもしれない。しかし、同時に、現在の様々な言語を崩壊させ、ジョージ・オーウェルが「ニュー・スピーク」と呼んだような、新たな世界統一言語を創作する下地とするのかもしれない。新たな言語は、コンピュータのプログラミング言語のように、文字と動作が一対一で曖昧さもなく結び付き、さらに身体に埋め込まれたマイクロチップをインターフェイスとする情報の入出力を通じて伝達されるものなのかもしれない。それは、言葉というよりは、電気信号であろう。極めて物質的なものになるはずだ。携帯電話などの無線通信の発達を考えれば、決して荒唐無稽とは思えない。

人間は、言葉で意思疎通すると言われるが、ノンバーバールコミュニケーションとも言われるように、身体の動きや、雰囲気など言葉とは言えない部分で、多くの情報を伝えているのも事実である。実に、純粋な言葉だけのコミュニケーションであるはずの、読書を例にとっても、本当の読書とは、表面の言葉を追うことではなく、書かれた言葉の背後にある著者の心を読み取ることに違いないと思う。本当に読書に集中できているときは、文字が意識されていないはずだ。文字を意識すると、逆に何が書いてあるのか分からなくなる。

外国語に習熟する過程で、このことを分かりやすく経験できる。英語のヒアリングで意味が取れているときには、頭の中で無意識に話し手の声が繰り返されているだけで、個々の言葉は明確に意識されていない。知らない言葉が登場して、どの単語だろうかと言葉を意識し始めた途端に、スピードがついていけなくなり(あるいは波長が合わなくなり)、何の話かさっぱり分からなくなってしまう。我々が最も自由自在に操ることのできる母国語(日常会話の範囲)は、無意識の内に学習したものである。

また、昨今では、インターネットなどで手軽に自動翻訳(機械翻訳)が利用できるようになっており、そのプログラムも進化しているのだろうが、翻訳された結果を読んでも、何が書いてあるのかテーマが想像できる程度であり、とても文章になっているとは言い難いレベルである。これも、言語というものの本質が、文字ではなく、心である証拠である。もしも、完璧な自動翻訳ソフトが将来完成するようなことがあれば、それは人間が心を失った証拠である。あるいは、自動翻訳で翻訳できるような文章には、心がないはずだ。例えば「この商品は何円です」などという程度の文章である。

こうした心の欠けた機械的な文章であれば、単純に文字化され、あるいは電気信号とすることも可能である。それが新世界秩序あるいはワンワールドの言語になるのだろう。その対極にあるものは、何と言うべきか分からないが、とりあえず以心伝心の「心」としておく。

私は、昔から(たぶん中学生ぐらいから)、法律を読むたびに、何だか複雑な文章でもっともらしく書いてあるが、この法律を構成している言葉の意味自体は誰が決めるのだろうかと疑問に思っていた。例えば「殺人」という言葉の意味が人によって違うとき、どうやって殺人罪が適用できるのだろうか?などと考えていた。今になって、ようやくその意味が分かったような気がする。「そんなの常識だろ!」というのが答えのようだ。言葉ではなかったのだ。