掲載2010年4月1日
為清 勝彦
Do You Know You? 「自分」探しの旅

これは以下の記事の続編である。
「豚インフルエンザとマネーカルト」(2009年11月25日)
「ドゥ・ナッシング」(2010年1月26日)
前回は、なるべく余計なことをするのをやめて、極限まで無になると良いのではなかろうかという話をした(ような気がするが、時間が経つと自分でも何が言いたかったのかよくわからない)。その上で、具体的に何をしたいか考えてみると良いと思うのだが、その前にもう一段階、「自分とは何か?」を考えてみると楽しいかもしれない。
自分探しツアー(参加無料!)にようこそ
「自分探しの旅」という言葉が流行ったが、本当の「自分」を知れば、たいていのことは理解できる。何か分からない「自分」を根拠に、個人主義も民主主義もありえないだろう。
今では全国チェーン・グローバル企業の商売のせいで、どこに行っても似たような風景になってしまった。それでも旅をすると、今までとは違ったものの見方ができるようになる。普通の海外パックツアーで主要都市をめぐるぐらいなら、テレビで旅行番組を見たほうが効率的で勉強になるが、テレビでは街の匂いは知ることができない。
しかし、こと「自分」に限っては、外国に探しに行っても、宇宙に探しに行っても、見つからないような気がする。逆に禁固刑にでもなって行動の自由を奪われると発見できたりする。だからといって無理に犯罪をおかさなくてもよいだろうが、実際には病気で死にかけて自分を発見できる人が多いようだ。実は私も「自分」とは何かよく分かっていないが、自分とは何か一度も考えたことがない人よりは、多少分かっている。
普段は明確に意識しないだろうが、およそ人間というものは、自分の身体が「自分」だと思っているようだ。少なくとも私はそうだ。もっと具体的に考えれば、皮膚より内側が自分だということになる。髪の毛も自分であるが、散髪屋で切った途端に自分でなくなる。食べ物は、食べた途端に自分の一部となり、糞尿になった途端に自分でない忌避すべきものになる不思議な存在である。正確に言うと、ヘルスレンジャーは、食べた物ではなく、吸収した物が「自分」だと述べている。ウンチが臭いと言われると人格を否定されたような気がするのも、まだ「自分」の一部だった余韻が残っているからである。余談だが、ウンチが臭いのは、人格の問題ではなく、食べ物の問題である。
さて、どうして自分の身体が「自分」だと思うように至ったのだろうか?
「自分」は痛い、人生は痛い
それは「痛い」からだ。
生まれたばかりの子供が学習していく過程を見れば自明だろう。刃物で切れたり、トゲが刺さったりしたときに、痛いと感じる範囲が自分である。もっと一般的に言えば「不快感」であり、喉の渇きや空腹感、さらには心の痛みもある。また、逆に「快感」もある。そうした「快・不快」を感じる部分(センサー)が自分である。生まれたときから、こうした「快・不快」を積み重ねる経験をすることで、「自己」が明確になっていく。そして、皮膚の内側が自分に違いないと、年齢を重ねるごとに、ますます確信を深めていくのである。
食べ物には気を遣う人でも、皮膚が触れるもの(洗剤やシャンプーなど)には、それほど気を配らない現象も、皮膚の外側なら自分ではないと思っているからだろう。私もヘルスレンジャーの記事を読み、皮膚から血液に浸透すると聞き、初めて危険を感じた。
だが、実は「快・不快」を感じているのは、皮膚ではなく、皮膚とつながった脳である。その証拠に、麻酔をかけると痛みを感じない。また、人間の肉体の細胞は、数ヶ月から一年程度で完全に入れ替わるという(ということは、余談だが、あらゆる身体の異常=病気は数ヶ月から一年程度で理論的には自然治癒が可能なはずだ。参考:身体の入れ替わる速度)。いったいどういうことだ?
本当の「自分」を探し出すために、身体を切り刻んで行ってみよう。もちろん想像するだけにしておく方が無難だ。四肢を失った人が実在する。ということは、手足は、絶対に存在しないといけないわけでもなさそうだ。臓器移植が実際に行われている。臓器移植で「自分」を失うわけではない。だから、心臓など胴体部分も必須ではなさそうだ(ただし、臓器移植では移植元の人格が現れるという)。そうすると、究極的には「自分は頭部」と言えるのだろうか。だが、脳の移植の技術も発達中のようであり、いよいよ「自分」とは何かわからなくなってくる。しかし、頭部なしで生きている人は見たことがないので、とりあえずは、頭が「自分」だと仮置きできるだろう。足のない幽霊でも頭ぐらいはある。
頭部には、目や耳といった重要な感覚器官がある。だが、盲人・聾唖者が「自分」を失っているかといえば、そんなことはない。だから、これらも必須ではないようだ。そうして突き詰めていくと、神経細胞とそれを連絡するシナプスが「自分」だということになっていく。だが、先述の通り、脳細胞も移植が可能である。それに、移植しなくとも、脳細胞は一ヶ月で40%、一年で全部入れ替わっているそうだ。
では、一年前の自分と今の自分は、まったく別人かといえば、そんなことはない。多少は変わっているだろう。「自分」であるはずの脳細胞が完全に入れ替わっているというのに、どうして一貫性を維持できるのだろうか?
そろそろ降参すべきだ。
「自分」は物質ではない!
宇宙論から考えた「自分」
反対に広大な宇宙に目を向けてみる。ビッグバン宇宙論とかいろいろな説明がある。難解なことは分からない。だが、単純に疑問なのは、宇宙に果てがあるなら、その向こうは何なのだ?という疑問である。まるで、地球が平面だと信じられていたとき、海の果ては滝になって落ちると思われていたような感じだ。地面(アース)は、地「球」だった。平面ではなく、立体だったのである。それと同じように宇宙は、立体ではありえない。この現実界を立体として把握するのは、人間の日常生活にとって便利だからに過ぎない。錯覚を上手に利用しているだけなのだ。そんなことは宇宙論では当たり前なのかもしれないが、ビッグバンという言葉からは立体的に膨張するイメージが連想される。多くの人は、錯覚だと分かっているのだろうか? 錯覚ではないという人は、宇宙の果ての向こうに何があるのか、その更に向こうには何があるのか、というエンドレスな疑問に答えられるのだろうか?
平面(二次元)を丸めて球(三次元)に変えるのをイメージするのは、比較的簡単である。だが、さらに立体を丸めて四次元にイメージしていくのは、現在の人類の知能では、なかなか難しい。何となく螺旋状の渦がイメージできるが、脳がオーバーヒートしそうだ。仮にそれができたとしても、更に五次元、六次元と無限に高次化・複雑化が続きそうだ。
だが、反対に一次元もしくは零次元に還元するイメージならば、できる人も多いと思う。
扇風機の羽根は、回転していると円に見える。そして、停止した状態の扇風機を見たことがなければ、羽根は円形だとしか思えないはずだ。我々は、義務教育の物理で、原子は殆ど空っぽであり、原子核の周りを非常に小さな電子が回転しているだけだと学んでいながらも、ぎっちり詰まった物質をイメージしている。鉄の塊をたたくと痛い。だが、そんな鉄の塊であっても、電子の回転が止まれば、無になるはずである。
その秘密は、相対性にある。自動車のタイヤは丸くないと転がらないのは誰でも知っている。だが、タイヤの周囲を拡大して見れば、ガタガタだ。ということは、大きく見て丸ければ、真円でなくともよいのだ。自動車のタイヤの場合、道路の面の粗さに対し、相対的に丸ければ十分なのである。道路で転がる程度に丸ければよい。逆に丸すぎるとスリップしやすくなって、不都合でさえある。よく「細かい人」と言われる人がいるが、それは、日常的な実用性からして不必要なまでに細部にこだわる人である。「雑な人」というのは、日常的な実用性に必要な細部の詰めをしない人である。無線通信でも、送信側と受信側の周波数が合わないと通信が成立しないが、そうしたお互いの相対的な大きさ・スピード等の一致が大事であって、片側だけをいくら精密にしても無意味なのだ。「いい加減」が大事である。
つまり、鉄の塊を空洞ではなく、固いと信じるのは、我々の皮膚感覚がそのようにできているというだけの話である。
全部「自分」だった
何が言いたいかといえば、立体的に認識しようが、スピリチュアルに認識しようが、我々が認識する世界は、我々の感覚そのものでしかないということだ。いくらあがいても、我々の身体の感覚器官の能力で認知できるものしか、認知できないのである。もちろん、技術の発達により、例えば天体望遠鏡で肉眼よりも遥かに遠くを見ることができる。音波探知機で海の中の魚を探ることもできる。しかし、それも肉体の能力の延長に過ぎず、限界はあるわけだ。
そして、この認知は、肉体の感覚にとどまらない。想像したり考えたりすることも、一つの認知であり、世界認識である。更に言えば、受け身で認知するだけでなく、人間というものは自ら妄想することで、新しい現実を創造することさえしている。
そして、身体能力や思考能力には個人差がある。つまり、人によって世界は違うのである。テレビ中心の視覚中心の人は、ビジュアル(物質的)にしか世界を把握できなくなる。私のように理屈中心の人間は、論理でしか世界を把握できなくなる。そのように考えると、自分が把握する世界こそが、実は「自分」だということにならないだろうか。
この論理的帰結には、驚愕せざるをえない。私の認知するもの全てが「自分」だったとは・・・。この地球も、広大に見える宇宙も、全てが。まるで太平洋の海上で一人ぼっちになった気分である。あるいは漆黒の宇宙空間に一人で取り残され、漂流している気分になる。周囲に沢山いたように見えた人々も、もしかして沢山いるように偽装・演技していただけなのか? 本当は誰もいなかったのだ・・・。
いや、そんなことはないと信じたい。この世界が「自分」であるならば、どうして「自分」の思い通りにできないのだ? そこには、やはり私以外の意志が確実に存在しているはずだ。だが、論理的帰結と矛盾する。私には分からない「不可知」の領域だ。
だが、この根源的な孤独感が、宇宙創成の秘密に違いないと私は思っている。全てを支配したいと思っている人々も、本当に全てを支配した暁には、どうしようもない孤独感に襲われるはずだ。全部自分で決めるということは、実に退屈で面白くないことだ。
よく全ては一つだと言われる。それは真実の片面であって、一つだと面白くないので、無数の個が生じているに違いない。個でなくなる(一つになる)ために、個に分かれているという壮大な宇宙のアイロニーである。無数の個である状態と、全て一つの状態を交互に振幅するところが良いのであって、全て一つに還元され尽くしてしまってはいけないし、全て一つであることを忘れて個別化する一方でもいけないのだ。それはまるで、「このままずっと一つになっていたい」と愛する男女が言うようなものだ。本当にずっと一つになっていると退屈する。一つになったり離れたりするのを一定の(時には意外な)時間間隔(リズム)で繰り返すから良いのだ。

人間というものは、恐らくどの生物もだが、利己的である。これは「利己的なのは良くない」という倫理観の問題ではなく、事実として言っている。利己的でなくなれば、それは死を意味する。だから、私は例外なく、人間は利己的だと述べているだけだ。
では、一見して、いかにも利己的な人間と、利他的な人間がいるのはなぜか? 利他的な人とは、とりあえず偽善者は別にして、本当に社会のために自分を犠牲にしている人のことである。
その答が、長々と述べてきた、「自分」の違いである。
利他的な行為をしているように見える人は、「自分」が大きいのだ。いわゆる利己的な行動しかできない人は、「自分」が皮膚の内側にしかないと思っている。大きな「自分」を利する行為は、小さな「自分」に閉じこもっている人から見ると、利他的に見える。
「世のため人のために尽くすように」と倫理観を植え付けられてする行為は、本物ではない。あまり教育でそれをやりすぎると、偽善者を大量生産することになる。倫理観ではなく、「自分」が拡大すれば、やむにやまれぬ気持ちになるものだ。「自分」のことなのだから。
例えば、普通の母親が子供のことを最優先するのは、「自分」から生まれた子供が「自分」の一部だと思っているからだ。人に強制されてする行為は無論、義務感や人の目を気にしてやる行為も、全部インチキである。「利己的である」という根本を否定した瞬間に、われわれは他力本願になる。その対象は、唯一絶対神であったり、宇宙人であったり、他の人であったり、とにかく「自分」以外の何かであり、そうしたものを拠り所として追い求めるようになる。その妄想が壮大な集団意識として「現実化」したものが宗教であり、科学であり、マネーであり、政治権力でもある。多くの人が「信じる」ことで力を得ているという点では、すべて共通している。
食習慣の改善にしても、自発的に精神的な負担なく改善できるのが本物だ。牛肉ステーキが食べたい内は、食べればよいだろう。我慢するのは良くない。だが、今や抗生物質の使用量は人間よりも家畜の方が多い、畜産業は製薬会社の大得意先などという話を聞いて、それでも食べたいだろうか? もちろん、安全面に配慮した畜産農家もあるだろうが、我々はスーパーの肉売り場でそれを見分けることはできない。知識があれば、我慢ではなく自然発生的に、食べるべきでないものは、食べないようになる。あるいは、食べたくなくなる。それだけのことであって、「精神力」とか「意志の強さ」とか「正義感」とか「愛」ではない。知れば、行わざるをえなくなる(知行合一)。
かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂
吉田松陰 (29歳で刑死)
さて、「快・不快」を感じるセンサーが「自分」であると、先に述べた。そして、我々の認識する世界そのものが「自分」であり、物質(立体)ではないことも論理的に証明した。そうなると、死とは何か?
肉体が消滅するので五感を失うことは間違いなさそうだ。だが、肉体は、もともと先述の通り、一年程度で入れ替わっている。生きている内も、食べ物などを補給しながら、消滅と発現を繰り返しているのだ。というか、その繰り返しこそが「生きる」ということ他ならず、それが限界に達して、できなくなることを死と呼んでいるのだろう。
「自分」とは情報ではないか?
このように肉体を繰り返し再現するためには、設計図(プログラム)が必要なはずだ。それを遺伝子DNAというのか、魂というのか、よく分からない。本当かどうか知らないが、人が死亡すると、数グラムの重量減少があると言われる(つまり、数グラムが地球の引力から切り離される)。携帯電話用のマイクロSDカードを想像してみてほしい。今の人間文明の技術水準で、あの大きさに、あれだけの情報が入るのだ。生命体の仕組みは、現在の科学技術よりもケタ違いに高度だ。となると、魂と思われる数グラムの物質があれば、相当の莫大な情報を持ち運ぶことができるはずだ。
死んだら全て無に帰すと考えるか、死後も魂が残ると考えるかは、信じる信じないの世界になる。だが、私は、この設計図というかデータベースは、永遠に受け継がれると思っている。どんな建物も形あるものもいずれ壊れる運命にあるが、その設計思想や設計図は永遠にコピーして受け継ぐことができる。劣化なしでコピーすることもできれば、改良を加えながらコピーしていくこともできる。これを現実世界で表現したのが伊勢神宮の式年遷宮だろう。あるいは、そもそも「時間」という概念も錯覚であり、永遠も何もないのである。全てが「自分」なのだから、消滅するはずがないとも言える。
また、次のように想像を膨らませることができる。とりあえず、物質界の「この世」と、精神界の「あの世」の二つがあるとしよう。実際には人間の知能では把握できないぐらい複雑なことになっていると思うが、とりあえずだ。
この二つは表裏一体で連動している。あの世というのは、いわば「想念」であり、「情報」の世界だ。例えば、この情報が、人間の肉体というこの世の物質を使って表に出る状態が「言葉」である。人間の肉体(脳)を経由するときに、さまざまな国の言語に変換されるが、あの世にある元の状態を敢えて物質的に表現すれば、「形」と「色」などの言語以前の基本要素であり(道路標識みたいに直感的に分かる状態)、更に一般的に言えば、周波数と振幅の大小に還元され、更に還元すれば、陰と陽になる。宇宙創成の際に、無から有が生じる仕組みは、0=+1-1の数式だと思うからだ。ただ、これは言葉遊びに過ぎないので、だから何だということではない。
先に述べたように、本当はほとんど空洞というか何も無いのに、「有る」と感じることで「有る」のだから、物質というのは想念が作った塊である。だから、どちらかと言えば、あの世の方が原初に近いのだろう。
チャネリング
あの世は、情報(想念)の海だ。人間の肉体を無数の細胞が構成しているように、あの世の海も、無数の想念の分子(魂)が構成している。その一つが、受胎して肉体を持つことが出生であり、肉体を捨てて想念だけの世界に戻ることが死である。肉体が亡くなったのに、この世に未練を持って留まっているのが幽霊である。その残留想念が強いほど、カラーではっきりと姿が出る。残留想念が弱いほど、透明に近くなる。想念の残留であるので、例えば足や胴体はなくとも、想念の部位である頭部だけ表出された状態になることが多いのだろう。幽霊はこの世にいるから幽霊なのだが(また、その筋の人に言わせれば死霊よりも生霊の方がよほど強烈である)、幽霊ではなく、あの世からメッセージを伝えるために表出する場合もある。その場合は、物質界に存在する事物を見事に利用して、形(透明)、あるいは、記号・言葉で伝えるようだ。
だから、メッセージを受けても、通常は、それと気付かないし(直感的にひらめいたと思うだろう)、他人に説明しても、それは錯覚だと言われる。「たまたまそういう風に見えただけ」というのも事実であるが、「たまたまそういう風に見えた」こと自体に意味があることもあるのだ。そして、そのメッセージを受けるにふさわしい人間だから受信できたのであって(相対性、波長の一致)、他人に説明しても理解されないのは仕方ない。例えば、現にこうして私がホームページ用に文章を書いているのも、読む人が存在するからであり、読む人がいなければ暇でも書かない。この文章を読んで面白いと感じる人は、日本中にそれほどいないだろうから、出版社に持ち込んでも採用されないだろう。インターネットという手段があって、初めて可能になったことだ。なお、地球上の人間界も十分複雑であるが、精神界の構造はそれよりも遥かに多重・複雑と思っておくべきだろう。神秘的な経験だから、全て良いわけでは全然ない。具体的なメッセージであるほど、人間界に近い存在からのものであり、根源的な存在に近いほど意味不明な抽象的なメッセージになり、大幅な解釈の余地が受信者側に委ねられる。同様に、人間が言語・論理で理解できる次元(例えば科学)というのは、物質次元であることも忘れてはならない。つまり、「思考」は「自分」ではない。「言葉にならない」経験が、精神次元である。
この辺りの具体的な話(心霊写真の鑑賞方法など)は、いずれオバケ屋敷のミストレスが語ってくれるかもしれない。だが、気まぐれなのであまり期待しない方がよい。いずれにしても、究極的な判断は「自分」がしなければならない。物質界に身を置き、「痛み」を感じながら、判断すること自体が、生きるということに他ならない。それを放棄して自分で判断せず、神仏や他人に頼るのであれば、実質的に死んでいる。神仏には、ヒントをもらうだけにしておく方がよいだろう。
永遠の安心、そして恐怖
話を戻すと、想念の海は、巨大なデータベースである。無数のパーティションに区画されているが、全体で一つでもある。その巨大なデータベースから、一塊の情報を「魂」という記憶媒体に搭載して、この世にやってくる。そして、この世の経験という新たな情報を書き込んでいく。その新たに付加された情報を携えて、あの世に帰っていく。あの世に戻ると(死ぬと)、この世で得た情報を整理して、データベースに登録する。あるいは生きている間もリアルタイムで連動しているのだろう。人間の骨格やDNAの形は、通信アンテナみたいだ。昼間経験したことを睡眠という仮死状態で毎日整理しているような気がする。そして、情報を整理・抽出した要素をプログラム(人格)化し、それを携えて、再びこの世にやってくる。過去の人生の情報は、データベースにはあるが、新たな人生には邪魔になることが多いので、転生の際には持ち込まないようだ。だから、普通は過去生の記憶はない。
永遠の魂と聞いて、安心するだろうか? 私は、どちらかと言うと恐怖だ。死んで無に帰すのであれば、どんな悪いことをしても大丈夫そうだ。バレなければ。だが、永遠に消えないのであれば、自分がやったことに永遠に縛られることになる。この怖さを知らない人が多いから、バレなければ良いと、平気で悪いことができるのだ。
今、不用意に「悪いこと」と言ったが、これもいろいろ考えた結果、そもそも絶対的な善悪の基準は存在しないというのが私の結論である。仮にあるとしても、「快」をもたらすものが「善」であり、「不快」をもたらすものが「悪」という程度のことである。例えば、病気になると痛かったり苦しかったりする。よって、病気をもたらすものは「悪」である。それ以上難しく考えても無意味である。「いい加減」に考えておこう。
人間は利己的な存在であるから、「自分」に「快」を与えるように行動をする。正確に言うと、「自分」で「快」につながると信じている選択をしている。勘違いも多々あるわけだ。例えば、全てである「自分」の一部をいじめて、別の一部を喜ばせているだけのことに気付かない。目先の「快」(例えば甘いケーキ)を求めて、将来の「不快」(病気)を拾っていることに気付かない。
いずれにしても、こうして「立体」世界で経験した「快・不快」が、魂のデータベースに蓄積される。そして、究極的には全ては一つであるから、「快・不快」をバランスさせるように作用する。つまり、自分の行動は、いずれ自分に跳ね返ってくる。言い換えると、善と悪の判断は、すべて「自分」に委ねられている。自分で善いと思うことをすれば良いだけだ。それがいずれ自分に跳ね返ってくるのだから。跳ね返ってきたときに「不快」であれば、それは悪いことだったのだと、自分で学習できる。
善悪の基準
車の運転で右に行くのが正しいか、左に行くのが正しいか、それは道路の曲がり具合によるのであって、常にどちらかが正しいわけではない。それに、絶対的な善悪など無いのと同様に、絶対的に正しいことなどないのだ。あるとすれば、気持ち良いか痛いかだけだ。実在するのは、論理ではなく、感性である。道が右に曲がっているのに、逆にハンドルを切れば、ぶつかって痛い思いをする。だから、右に行った方が、痛くないというだけだ。だが、敢えて危険なこと、痛い思いをすることが好きな人もいる。その場合には、止めようがない。
「自分」の行いは、「自分」に戻ってくる。作用と反作用だ。人間の時間感覚では、忘れた頃に、記憶にない昔に「自分」がしたことが、反作用で戻ってくることもあるだろう。そのときに「不快」であれば、「他人」のせいにしたくなる。そしてますます悪循環の深みにはまっていく。家族の生活のために悪徳商品を売って稼いでいる人もいるだろう。生活のために仕方ないと思っているならば、それは「自分」の判断だ。だが、そのしっぺ返しが来たときに他人のせいにしない方が良いだろう。それは今の人生では来ないかもしれない。私など臆病な者には、例えばワクチンを売るなんて怖くて絶対にできないことだ。本当に製薬会社の人たちは勇敢だ。無知は、人に勇気を与える。あるいは、人間には敢えて危険で痛いことを経験したいという冒険心が旺盛にあるのかもしれない。
このホームページも、すべて自分のためにやっている。いろんな企業を非難することになるので、本当はやりたくないのだが、最低でもこれぐらいはやっておかないと自分の未来に災いが起きそうなヤバイ感じがするからだ。スピリチュアルなリスクヘッジである。(私は人間の作った宗教施設は無視することにしているが)その心境は、一般の人が災いを先制するために寺社に寄進するのと似ている。
先述の通り、読者が検索エンジンの巡回ロボットだけという事態にでもならない限り、このホームページを継続していきたいと思っている。現在、毎日およそ300人の方の訪問がある。私の当初の期待を大幅に上回っている。これは嫌味ではない。毎日1万人を超えるようなアクセスにでもなれば、私も身の危険を感じるので、今ぐらいが心地よい。
それでは、末筆ながら、どうか皆様におかれては、くれぐれも「ご自愛」されますよう、お祈り申し上げる。
なお、この続編は「終末予言の論理的解明」となる予定である。

