掲載2010年7月13日

為清 勝彦

終末予言の論理的解明(後編)

ここに至るまでの記事。

「豚インフルエンザとマネーカルト」(2009年11月25日)

「ドゥ・ナッシング」(2010年1月26日)

Do You Know You? 「自分」探しの旅(2010年4月1日)

終末予言の論理的解明(前編)(2010年7月6日)

ヒトラーの予言分析をした五島勉氏には『釈迦と日蓮 やはり世界は予言で動いている』(2004年、青萠堂)という著作もある。

蒙古襲来を予言した日蓮上人は、立正安国論などに、とにかく法華経が第一だと書き残している。まるで法華経のアフィリエートをしているかのように宣伝している。真言宗(空海)や浄土宗(法然)をボロカスに非難し、そんなものを信じているから、外国に攻め滅ぼされるし、飢饉や疫病も発生すると警告している。そうした妄信は捨て、法華経だけに専念すれば、国難が回避できると時の最高実力者の北条時頼に立正安国論を送っている。

日蓮上人 (現在の鴨川市出身、1222年3月30日 - 1282年11月21日)

普通、そこまで言うならば、法華経がどのように素晴らしいのか懇切丁寧に解説してくれてもよさそうなものであるが、ネタバレになるのを避けているアフィリエートのように、とにかく法華経が最高に良いのだと、推薦の言葉に終始しているのである。今で言えば、「リンク」だけである。法華経には様々な漢訳があるが、日蓮上人のお勧めは、羅什の漢訳だ。その推薦理由も秘密らしい。しかし、漢文は難しい。現在の日本では、サンスクリット語を口語訳したものを読むことができる。

そこで、岩波文庫の『法華経』を読んでみると、ブッダが最高の教えを説いた、喜ばしいと書いてある。それも繰り返し何度もしつこく、大袈裟な表現を使って書いてある。どんな教えだったのだろうかと、非常に期待が膨らむ。しかし、最後まで読んでも出てこない。

もしかして、これも「最高の教え」へのアフィリエート・リンクだったのだろうか。まるで癌の特効薬を宣伝したホームページで、いくら読んでもなかなか価格情報に行き着かないような、そんな歯がゆさを感じるのである。それでも、UFOを思わせる宝塔が出現したり、地中空洞から地湧(じゆ)の菩薩が登場するなど、謎めいたエンターテイメント性もあり、続きをクリックして読みたくなる誘惑に駆られる、あの感覚である。

これはもしかして、お経を売るための詐欺商法だったのか?

妙法蓮華の意味

いや、そんなはずはなかろうと、つらつら考えながら、私は暇人なので、近所の川村記念美術館の庭園を優雅に散策していた。この自然散策路は、DIC(大日本インキ)株式会社が気前よく無料で開放している。美術館は有料だ。落ち着いた雰囲気の中に趣味よく整理されたコレクションである。

そこに、ちょうど今の季節、蓮の花が咲いていた。

川村記念美術館にて撮影(2010.6)

法華経という書名自体が、蓮の花=法の教えという意味

法華経とは、「妙法蓮華経」の略である。

蓮の花が、優れた法であるという意味らしい。

これはもしかして・・・

何という盲点だろうか。

最高の教えは、タイトルにあったのだ。

どうりで法華経の本文をいくら読んでも答が書いてないはずだ。

蓮の花が教えであった。あとは各自、ご自由に考えてみなさいよということらしい。

確かに何万冊の書物による解説よりも、蓮の花の一輪の中に込められた情報は比較にならないほど精緻であり膨大である。そして、そこから何を読み取るかは、人それぞれである。そうしてみると、「南無阿弥陀仏」の念仏宗をボロクソに言っておきながら、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えるとはおかしいじゃないかという矛盾も解消するのである。

私は前から日蓮上人は素晴らしいと思っていた。誰、疑ったのは?

例えば、究極の目的はあるのかという難問がある。これも、蓮の花を眺めれば、花が咲くことにあると言えるわけだ。だが、花が咲くためには、種から芽を出し、成長するというプロセスが必要であり、その各プロセスも怠ってはならず、それぞれのプロセスも目的の一部に違いない。また、花が咲くことで、次のサイクルの種子を生み、次の世代の花へとつながっていく。そういう意味では、花も次の目的の手段でもある。

また、花が咲くためには、いろいろな環境、条件が必要である。その中でも一番大事なのが、タイミングだろう。いくら水と養分があり、日が照っても、然るべき時間が経過しなければ、花は咲かない。日蓮上人の遺稿に「撰時抄」がある。その冒頭に、とにかくタイミングが必要だと書いてある。大通智勝仏は、人々が理解できるだけ機が熟するまで気の遠くなるような長い歳月を何も語らず座して待ったという。

また、これはよく言われることだが、蓮の花は、泥水の中から出現する。また、ロータス効果といわれるように、蓮の花や葉には撥水作用があるため、汚れが付着せず、自浄力がある。今のように腐敗した世であるからこそ、美しいものが映えるのだと訴えているように見えないだろうか。

また、全ては必然と言われながらも、人間の意志や努力も全く不要でもないこと、逆に、人間がいくら努力してもどうしようもないことがあることも、何となく分かる気がしないだろうか。

このように、蓮の花を一つ眺めるだけで、いろんなことが分かるのである。まさに「最高の教え」である。

末法予言の一解釈

仏教の正法・像法・末法については、様々な年代割当の考え方があり、また釈迦入滅年も約500年の違いで二説あるため、何が正しいのかわからないところがあるが、前編で紹介したヒトラーの2039年を末法の中心(究極)と仮定して逆算すると、次のようになる。

ここで、像法の始まりは、539年になる。釈迦入滅年の一説のBC463年からほぼ千年である。日本の歴史に当てはめると、百済から仏教が伝わったのが538年とされ、聖徳太子、推古天皇が仏教を盛んにしたとされる時期である。仏教は、中国経由で伝来したので、日本からすると中国思想のようなものだが、その後、遣唐使の派遣、律令政治へと、中国文明を模倣する時代が始まった。日蓮上人がボロカスに言っているように「インチキ仏教」の時代と言ってもよいのかもしれない。

末法の始まりは1539年になる。これは陰惨な西洋の時代の幕開けである。

キリスト教勢力は、1492年8月2日、スペインに居住していた約30万人のユダヤ人(スファラディム)を一斉に国外へ追放した。かつて栄えたスペインのユダヤ社会は突如として崩壊したのである。イベリア半島から追放されたユダヤ人たちは地中海沿岸各地からアフリカ北岸、トルコ、バルカン地方、イタリア、大西洋岸方面ではハンブルグ、アムステルダム、ロンドンなど、政治・経済の中心地へと分散していった。

ユダヤ人のアメリカ移住史 http://hexagon.inri.client.jp/...

亡命中のユダヤ人社会で拒絶されたもののなかに、3つのタイプがあった:

Ⅰ あるものはユダヤ教を顕在的に実践した。組織化されたユダヤ人社会とは独立に。

Ⅱ あるものは隠れたままに留まったが、外見上カトリシズムを実践した。(イエズス会、黒い貴族)

Ⅲ あるものは、新しいユダヤキリスト教を設計、(にむけて)潜入、あるいは採用した。それらはスペイン追放のあと不思議なことに次々に誕生した。

ローマカトリック教とは違って、それらは、より密接にユダヤ教の聖書をベースにしていた。これらの新しい分派は隠れユダヤ人にとって歓迎すべき一時的救済であった。彼らはその新しいキリスト教分派を、よりノアチャイド法にそったものであるとみなした。それはより望ましいものとみなされた。

カルビン主義は隠れユダヤ人ジーン・コービンによって開始されたと示唆されてきた。ジーン・コービンは後に、彼の名をジョン・カルビンに変えた。カルビン主義はピューリタニズムを生み出すことになった。

Ⅳ あるものは、ユダヤ教で信奉される前ユダヤ原理―ノアチャイド法に基盤をおいた兄弟友愛会を発展させた。この兄弟団は顕在であれ隠れであれ各種のユダヤ人グループのメンバーを許容した。それは、全て神の意志に基づき合意された共通の目的と仕事に向かってお互いに交流するためであった。(フリーメーソン組織)

さてはてメモ帳 Imagine & Think! http://satehate.exblog.jp/8011960

これらのファミリーは、金融寡頭権力を構成している;彼らはウィンザー家の王位の背後にある権力である。

彼らは自分たち自身をヴェネチア寡頭権力の相続人とみなしている。それは1509から1715年の間にイングランドに侵入しそれを転覆打倒、そしてバビロン、ペルシャ、ローマ、ビザンチウム帝国の寡頭権力システムを継承する一つの新しい、より悪辣なアングロ・ダッチ・スイス系の血統を確立した。・・・

1649年の英国革命は、彼らに世界覇権を与えるように設計されていた一連の革命の第一号であった。 1694年にウィリアム王による1694年のイングランド銀行設立は、次の決定的な一歩であった。

外見の背後では、イングランドは300年以上に渡って「ユダヤ」国家であり続けてきた。 (pp.20-24)

ユダヤ人銀行家ファミリーは、彼らの女性の子孫を浪費家の欧州貴族と結婚させることを慣行としていた。ユダヤの法では、ユダヤ人の母親からの混血の子孫はユダヤ人である。 (男性の後継者はユダヤ人と結婚する。ビクターとジェイコブ・ロスチャイルド[Victor and Jacob Rothschild]は例外であるが。)

例えば、 1878年、ハンナ・ロスチャイルド[Hannah Rothschild]はのちに首相になったローズベリー卿[Archibald Primrose, 5th Earl of Rosebery]と結婚した。 1922年、フィリップ王子の叔父で、女王のいとこであるルイス・マウントバッテン[Louis Mountbatten]は、世界で最も裕福なものの一人、ユダヤ人銀行家アーネスト・カッセル[Ernest Cassel]の孫娘と結婚した。 ウィンストン・チャーチルの母、ジェニー(ジェイコブソン)・ジェローム[Jenny (Jacobson) Jerome]はユダヤ人だった。

1900年代の初めには、ユダヤ人と人種間結婚していない英国貴族ファミリーはほとんど残っていなかった。

さてはてメモ帳 Imagine & Think! http://satehate.exblog.jp/11972776

こうした歴史から伺えるように、16世紀を起点に、いわゆる西洋の秘密結社・陰謀ネットワークが形成されていったものと思われる。亡命してきた金貸しが集まったというロンドンの金融街(シティ)の起源もその頃であろうし、イエズス会の創設(1534年)、フランシスコ・ザビエルが日本に上陸した(1549年)のも、そのころである。日本の歴史としては、「インチキ・キリスト教」=西洋文明を模倣する時代の幕開けであり、まさに末法の時代の始まりである。

言葉が生きていた過去、言葉が死んで尚も過信される今、言葉を超越する未来

日本最古の歴史書といわれる古事記の編纂が712年ということであるから、539年以前の正法と思われる時代については、基本的に文字で歴史が残っていない。文字があったが、残っていないのかもしれないが、そもそも文字が使用されておらず、音声の言葉が中心だったのだろう。日記をつけるほどの問題がなかったのかもしれない。

この正法・像法・末法という千年区切りの大きな時代区分をどのように解釈すべきか、いろいろな考え方が可能であろうが、私は、

正法 話し言葉で用が足りた時代(真言=まことの時代)

像法 書き言葉=文字での証拠が必要な時代(形式化・専門化・知識の時代)

末法 言葉=信用が意味を失った時代(嘘=うその時代)

と捉えてみた。

そして、末法の極まる今の時代には、完全に社会の隅々まで嘘・詐欺が蔓延し、言葉が意味を失っている。そんなときに、いくら言葉であれこれと何が正しいと説いても無意味である。そこで蓮の花が登場する「タイミング」を迎えるということではなかろうかと思うのだ。

情報化社会といわれる現代に生きる我々は、識字率の向上もあって、言葉というものを過信している。だが、言葉というものは、実に不明瞭で、正確でないのだ。試しに、例えば建築の設計図を言葉だけで書くとどうなるか想像してみてほしい。一枚の図面で済むことを、言葉だけで正確に伝えるとすれば、どれほど膨大な文字数が必要だろうか。更に書き言葉ではなく、会話で表現するとなると、ますます混乱するのが分かるだろう。

今回話題にした法華経にしても、原典はサンスクリット語であり、それが漢訳された上で、日本に入ってきたのである。正確に伝わるわけがなかろう。それに言葉は時代によっても変わる。昔の漢訳の法華経をスラスラと解読できる日本人が現在どれだけ存在するというのだろう。冷静に考えてみれば、そんな不確かなものに頼って「最高の教え」を遺すはずがないのだ。

同じ現代日本語の世界に住む我々の間でも、人によってそれぞれの語句の解釈にはズレがある。例えば「民主主義」という言葉の意味は、十人十色だろう。法律も政治思想も、いくら立派な内容であっても、言葉で作られたものである限り、更なる紛争の種にしかならないのである。その典型が、同じ神の名が民族ごとに異なることで生じる宗教紛争だろう。また、その最たるものが「愛」という言葉である。これほど各人が好き放題に解釈している言葉もない。そんな言葉を至上の価値にしたら、どうなるか想像できそうなものだ。

我々には、深遠な言葉、難しい言葉に真実や、究極の価値があると信じたくなる性癖があるが、もしも人類共通の理念というものを構築できるとするならば、それは蓮の花のような自然の実物で表現されることになり、言葉はあくまで補助的なものになるだろう。

終末の回避・救済とは何か?

自然界の物理法則は回転であり、それを時間軸で表すと周波数の振幅になる。例えば、一日の気温変化、一年の気温変化もあれば、長い周期での地球全体の寒冷化・温暖化もあるだろう。

こうした変化は自然の法則であって、人間の意志で変わるものではない。思うに、この自然のサイクルを忘れたり、自然のサイクルを打ち消そうとする人間のムダな努力のしっぺ返しが、不幸の元なのではなかろうか。

例えば、寒冷化を迎え、常夏の気候が、四季のある気候に変わる。そうすると、冬季に備えて食糧の備蓄や、火を使った調理が必要になる。さらに進化して、現在のように冬でも農作物を生産できるようになる。だからといって、備蓄を前提にした経済や調理方法がなくなるわけではない。そうすると、過剰な蓄積、蓄財による貧富の差が生じるだろう。

あるいは、何百年という長期サイクルの大地震は来ないだろうという勝手な希望的観測に基づき、高層ビルなど人間が大きな建物を作る。そうすると、大地震で大きな被害が発生する。地震そのものは地球の自然な活動として必要なのかもしれない。本当の技術とは、そうした自然のサイクルを全て計算に入れた上で、地震が発生したら楽しめるようなすごい建物を作ることなのだ。火山噴火であっても、そのタイミングと規模が予知できれば、壮大なエンターテイメントとして楽しめるはずなのである。

本当の科学というものは、自然を深く理解し、自然に適応する技術の開発にあるべきで、中途半端な理解で乱暴に自然に手を加える技術の開発であってはいけないのだろう。

自然界には生滅があり、この自然のサイクルの滅びをもって終末と捉えるのであれば、それは不可避である。自然の法則で滅びることを回避することはできない。多くの予言者は、終末を回避するために終末を予言すると言っているが、その回避する終末とは、この自然の滅びとは異なる人為的なものなのだろうか。

終末とは何か、何を回避すべきなのか、救済があるとすれば救済とは何なのかと、具体的に考えてみる。回避すべきものとは、苦しみである。終末予言が描くような地獄絵図から判断すると、例えば病気であり、飢餓であり、生命の危険である。財産を失うこともあるかもしれない。そして、救済とは、死の恐怖や生活の困窮から我々を救い、豊かで幸せな楽園へと連れて行ってくれることだろうか。

腐らず枯れること

もしも回避したいものが、生の苦しみであるならば、それは人間の知恵で回避すべきものであろうし、人間の知恵で回避できると思う。高度な科学技術、高度な政治技術である。もし回避したいものが、死の恐怖であるならば、それは終末に限らず、不可避である。人間は終末が来なくとも死ぬわけであり、多くの人は常に交通事故などの危険と隣り合わせで生活しているわけであるから、とりたてて終末を怖がる意味はないだろう。死の恐怖に囚われていること自体が、生の苦しみの原因となる。

自然のサイクルを見れば、どんなものにも始まりがあり、終わりがある。蓮の花もそうだ。そうしてみると、悲劇的な終末を回避するということ自体に無理があるのかもしれない。終末は終末として受け入れるしかなく、そのときの心の持ちようが、次のサイクルで花となって咲くための種子となるのではなかろうか。明らかに最悪の状況を迎えている今、なすべきことは、肉体的なサバイバルも大切であるが、今回の文明の歴史を振り返り、そこから何かを学び取ること、そうすることで実を結び、次の種子を作ることなのではないかと思う。

植物の滅び方にも、枯れるのと、腐るのとある。腐ってはいけないが、枯れることは受け入れないといけない。人間はいつ死ぬかわからないという誰にも否定できない単純な真実を忘れ、死の恐怖のために生を犠牲にするならば、それは腐っている状態だろう。生命を大切にする余り、生命を腐らせている状態である。逆に言えば、多くの人々が、どっちみち死ぬんだからと開き直ったときの迫力はすごいものがある。

いずれにしても、ここで私が自分でも何が言いたいのか分からないと思いながら書いている言葉よりも、ちょうど蓮の花の季節を迎えている。お出掛けして、蓮の花を眺めていただければと思う。




自分で考えて納得したことだけが、本当の知識となり、行動を変える。いくら本を読んで知識を身に付けても、記憶するだけでは無意味であり、記憶するだけならば、コンピュータの方がよほど正確で優秀である。「蓮の花の教え」とは、そういうことだろう。

たぶん次に続く。

(今回までは現状認識であり、次回以降は実践編になる予定。我々が知らず知らずの内に入信してしまった「マネーカルト」から脱出するマニュアルである)