掲載2011年7月20日

同情という人間中心主義

マスコミがどうして事実を歪曲し、偏向した報道をするのかという疑問を考える上で、非常に参考になる事例を紹介しておきたいと思う。まずはこちらの朝日新聞のニュース記事をご覧いただきたい。

おにぎり親子、寒空の贈り物 (2010.12.25)

次に、この取材・報道に関する松本隆さんのブログを読んでいただきたい。

「その裏にあるもの」(2011.2.18) We are all one.(僕等は皆一つ)

NHKの「無縁社会」の捏造ドキュメンタリーの話も大事だが、重要なのはこの部分である。

一見、他人の為にやっていると思うかもしれないが、先ず第一に自分の為にやっていること。他人の為にやっていることは、自分の為にやっていることと同じ、等という主張をしたが、これだと記事にならないのだろう。記者の方の取材もさることながら、先ずは新聞社の意向、意志があり、何とか美談にしたかったのだろう。故に僕の想いや意向とは真逆の内容になってしまった。

マスコミは、営利企業であるから、多くの人間(大衆)に好まれるもの、多くの人間が理解可能な最大公約数的な低俗な感情に訴える習性がある。その典型が、スポーツ新聞や週刊誌を賑わすセックス、スポーツ、スキャンダル、マネー(競馬や株などの賭け事)である。ちょうど昨日届いたTHINKERのメルマガでナオキさんがこう書いている。

人は恐怖するときに冷静さを失い、自分の頭で考えることをやめて怒りやあきらめの感情に支配され、現実逃避するか、権力に依存します。(※自分が恐怖していることを認識できる人はほとんどいません。現代人は常に恐怖状態に置かれ続けているために、それを普通の意識状態として認識しています)

そして、恐怖(ニュース)と安堵(エンターテイメント)の反復を与え続け、人々を精神分裂の思考停止状態に置くのがマスコミの役割です。これは非常にうまく働いています。スポーツやお笑いに歓喜したかと思うと、次の瞬間には放射能や電力不足に不安を抱く、、、。統合した人格には起き得ない心理現象を多くの国民が日々体験させられています。

同じブログで、放射能の恐怖をヒステリックに煽りながら、野球やサッカーのことも書く。個人ブログなので、その人の自由だ。しかし、そういうごちゃまぜを「不謹慎」と言うのだと私は思う。そもそもどこまで真剣にやっているのだろか、真相解明も政治の批判も全て娯楽としてやっているのではないかと思いたくなる。きっとそうなのだろう。

私はこれまで、洗脳されるからテレビは見てはいけない、思考が乱れるから肉は食べてはいけないという趣旨のことを述べてきたつもりである。私だけでなく、他にも似たようなことを言っている人は多いが、そうした実体験に基づいて行っている警告を無視するバカには本当につける薬がない。肉食によって思考を乱され、肉食による感情の浮沈の波にさらされながら、目の前の日常に忙殺され、テレビ場という非常に狭い想念領域に閉じ込められて鬱になっている状態、これが世間の大半の人間の姿だ。バカは死んでも治らない。霊界でも迷ったままになり、線香の煙とお経で追い払われるだけの悲しい存在になる。よく宗教団体が金儲けのために供養を勧めるが、常識的に考えて、苦痛を伴う肉体を持ったこの世で気付くことのなかった霊魂が、そうした儀式的な行為だけで気付くわけがないと私は思う。迷っていたい霊魂は、誰が何と言おうと迷っていたいのだ。そして何度も似たような人生を繰り返す。

マスコミは営利企業であり、スポンサーの意向に左右されている。それがマスコミの金権体質である。それに加えてマスコミには、なるべく多くの読者の関心を引くために、大多数の人間に共通する最大公約数に訴える習性があるため、セックス(性欲)、グルメ(食欲)、スポーツ(闘争を好む性質)、スキャンダル(他人の不幸を喜ぶ性質)、マネー(儲かる話)などがマスコミが取り上げる主なテーマになる。この基本的なマスコミの性質を理解するだけでも、テレビや新聞に近づかないほうが真実に近づくことができるのがわかるだろう。

松本さんのブログには、取材記者の方とのやりとりについて触れた続報もある。

「言葉の重み」(2011.2.24) We are all one.(僕等は皆一つ)

これを読むと、この記者は若いのだろう、まだ純粋な気持ちが残っているように思える。若い内からロボット化する人間が多い中で、稀少な存在だ。しかし、会社の中でも比較的責任の軽い平社員である内は、純粋でいられるものだ。40代、50代になり、部下を持ち、会社の経営に責任を持つような年齢になっても、今と同じ気持ちを維持できるかどうか(少なくとも心の裡に潜めておくことぐらいはできるかどうか)に、人生の価値がある。やむをえないと流されるだけの人生ならば誰にでもできる。

さて、ここからが本題であるが、マスコミが視聴率・読者数を増やすために利用する低俗な感情には「同情」もある。

ワンネス利己主義

上に引用した通り、松本さんは、何よりも「自分のためにやっている」のである。しかし、朝日新聞の記者は、路上生活者を哀れんだ松本さんが「同情してやっている」とすり替えたのである。すり替えたといっても、意図的ではないだろう。マスコミの世界に染まってしまうと、そういうスタイルで記事を書くのが自然になるのだと思う。そして何よりも、松本さんのような行為を「自分のためにやっている」という意味が理解できないのである。これはある程度の精神性を備えた人間でなければ理解できない。もちろん世間の大半の人間には理解できない。大半の人に理解できないことを記事にしても(マスコミにとっては)無意味なのである。

「自分とは何か」という疑問を突き詰めていけばわかることではある。俗に利己主義は良くない、利他主義でなければならないというが、これはいずれも狭い認識の自分を前提としている。自分勝手に狭く区切った自分を前提にしている限り、利己主義も利他主義も破滅的な結果を招く。当たり前の話だ。どんな生物も自己中心主義でなければ、現在、存在していないはずである。

生物の世界には様々な形態の寄生や共生関係があるが、いずれも自分のために役立つから他者を助けたり、利用したりする。俗に言う利他主義は、こうした生物としての最も基本的な性質を否定しており、生命そのものを否定しているようなものだ。往々にして「利他主義」を掲げることで利益を得ている(利己している)狡猾な連中がいる。宗教団体がその典型である。そうした狡猾な行動も、その生物種(私は人間の中には実に多様な生物種がいると思っている)としてのユニークなサバイバル行動ではある。あるいは、本質的に絶対に利他主義になることができない人間に対して利他主義を信じ込ませることができれば、確実に「罪の意識」を植え付けることができる。罪悪感はマインド・コントロールの土壌になる。

俗に「利他主義」という言葉でなんとなく意味されていることを否定するわけではない。もっと正確に表現すべきだと思っているだけである。人間も生物である以上、基本的には利己主義である。しかし、その利するべき「自己」とは何かということを突き詰めれば、我々が通常「自己」と認識している「思考」や「肉体」を超越することができる。常に超越した状態が維持できなくても、一時的に瞬間的に超越することぐらいはできるだろう。目の前で溺れている子供がいれば、普段は利己的な人であっても自分の危険を顧みず海に飛び込む人は結構多いだろう。

そうして拡大した自己、究極的にはワンネスになった自己で、自己中心主義になってみたらどうだろうかというのが、私の言いたいことである。「ワンネス利己主義」とでも名付けておこう。通常の利己主義というのは、分裂した自己を前提とした利己主義である。ワンネス利己主義者は、分裂利己主義者から見ると、分裂利他主義者に見える。「自分のためにやっている」松本さんを取材した記者が、松本さんは「同情してやっている」と解釈したのは、それだ。

人間中心主義を超越し、地球中心主義(グローバリズム)へ

「同情」に関して、もう一つの観点から考察すると、通常、同情と言う場合には、人間が人間に対して同情することが多い。Love & Peaceとか、助け合いなどと言うのも、人間界の内輪での話であることが多いだろう。無意識に人間中心主義に陥っている。

我々は人間なので人間中心の視点になるのは当然である。しかし、その人間中心主義のせいで地球が汚れ、破滅的な状況になっているのはご存知の通りである。今大事なのは、人間中心主義(ヒューマニズム)から脱却できるかどうかであり、人間同士が助け合うことではない。人間中心主義を超越し、人間中心の視点と、他の視点のバランスを取ることができるかどうかに、これから人類が地球上に存続を許されるかどうかがかかっており、実にパラドックス的であるが、(分裂)人間中心主義を脱却しなければ、(ワンネス)人間中心主義にはなれないのである。

俗に倫理とか道徳とか言われているものの多くは、人間中心の価値観に過ぎない。それに加えて特に兄弟の多い家庭環境で育つと、親に「良い子」だと思われることで、他の兄弟を出し抜きたいという心理が発達しやすいようである。それが学校での成績を上げ(より強固な洗脳にはまり)、社会に出て出世する(マネー経済による地球の汚染)動機にもなっている部分があるのだろう。

このところ、自分のことしか考えていない人間でも、災害救援の寄付や、(実際に行くかどうか別にして)ボランティア活動に興味を持つ現象を私は不可解に思っていたが、これも周囲から「良い人」と思われたいという潜在的な欲求だと考えれば納得できる。生物の世界でも保護色などで身を隠す「擬態」(カモフラージュ)がある。この「良い人」と思われたいという心理をマスコミが更に煽り、その結果をイングランドと同じシンボルを掲げ、血を収集し、皇族が名誉総裁をしている日本赤十字などが利用しているという構図である。

ここで我々は人間なので当たり前のこととして忘れているが、「良い人」とは人間にとって良いという意味に過ぎない。他の生物や地球にとって良いとは限らない。昔、どこかの火山噴火の災害報道を見ていて腹立たしく感じたことがある。噴火のため、温泉旅館が営業できなくなった。その旅館の経営者が火山を恨んでいるような発言をしていたのである。しかし、そもそも火山があるから温泉旅館が成り立ってきたのではないのか。

このように人間は、自分に都合の良い部分の自然を「善」とし、都合の悪い部分の自然を「悪」と決め付けている。自然は一体なのに、人間の都合で善悪に切り分けているのだ。「愛と平和」などという偽善的なスローガンを掲げ、地球を愛するなどと言いながら、地震を止める祈りの想念を送っている人々もいる。しかし、地球は何らかの必要性があって地震を起こしている。人体で言えば免疫作用に相当する。それを人間の勝手な都合だけで地震を起こすなと要求するとは、人間中心主義、ここに極まれりだ。それとも腹を固めて、とことん地球と対決し、地球をやっつけるつもりなのだろうか。

少し冷静に考えてみればわかることだが、自然が本来の力を発揮すれば、人類を滅亡させるのは簡単なことである。それなのに何故、今まで敢えてそうしなかったのか。そこに「自然」の慈悲がある。「自然」とは、我々日本人が神々と呼んでいる存在であり、デーヴィッド・アイクが爬虫類人と呼んでいる存在のことだ。その爬虫類人(神々)の手下であるイルミナティの支配する国際企業や米軍がやっている有害物質の拡散、気象操作や人工地震も、大きく見れば「自然現象」ということになる。わざと人間に気付きを与えるように、ゆっくりと時間をかけてやっているというのに、いつまでも人類は気付くことがない。いよいよ慈悲の心も尽きつつあるように感じる。

最後に、最近、石巻に災害復興ボランティアに行った方から聞いた現地の生情報がこちらのブログにある。私はテレビを見ていないので、マスコミがどんな報道をしているか知らないが、恐らくこんな情報は流れていないはずだ。週刊誌ネタにはなるかもしれないが。

「引越し手伝い~日本の縮図~美しい人へ」(アメブロ限定記事)まろんのブログ

今必要なのは、人間同士の助け合いではない。必要なのは、地球を愛することである。そのために人間が助け合うのであれば、意味のあることだろう。