掲載2011年8月27日
【書評】『「痴呆老人」は何を見ているか』大井玄著

私がこの本を読んでみようと思ったのは、痴呆老人そのものに対する関心というよりも、私から見ると世間の大部分の人々が痴呆に思えてきたからである。痴呆老人を知れば、このマネー支配から脱却するためのヒントが得られるような気がした。(なお、この著者は「痴呆症」が2005年以降「認知症」という意味不明な言葉になったことは、ネグロをブラックと言い換えるようなごまかしに過ぎないと指摘している。私もそう思う)
痴呆老人の行動パターン
まず、痴呆老人とは何か。痴呆老人の問題行動パターンには次のような特徴があるという。
家庭では、①性格が変わってきて、訳のわからないことに激高する。家人に暴行を加える。ときには刃物を突きつけたりする。②妄想がつよくなる。徘徊し、近所の家の戸を叩いたり叫んだりする。食事に毒が入っているとして家族のつくる食事を拒否する。③ゴミや新聞紙など色々のものを集め、部屋一杯にする(一人で暮らしている場合に多い)。④異物を食べたり、排泄の管理ができなかったりする。弄便〔大便をこねたり、塗りつけたりしてもてあそぶ行為〕がある。入浴を拒否する。などが代表的なものです。
これは私のことではなかろうか。よく人間というものは、相手を批判しているつもりで、自分自身のことを述べていることが多いと言われるが、世間一般の人々を痴呆ではないかと疑っていた私自身が実は痴呆である可能性が濃厚である。唯一あてはまらないのは③の「ゴミや新聞」を集めることだが、これを「インターネット上の情報収集」に置き換えれば、後はパーフェクトに一致する。いくらなんでも④はないだろうと思われるかもしれないが、これもごく最近になって糞便に対する認識が逆転したため、実行はしていないが、気持ち的には該当している。
「自分」の崩壊=つながった自分から孤立した自分へ
著者の大井氏は、東大医学部、ハーバード大学院という経歴からしてもエリートであり、能力を磨くことでピラミッドの上に登ることを目指し、それを「自己実現」と信じてきた。その著者が、現実に痴呆老人と向き合ったときの衝撃を次のように述べている。
自立・自尊は強い意志と努力によって達成され、それには能力が伴わなければならない。当時のわたしは、医学というアカデミズムの世界でわが道を切りひらき、社会の階段を登る能力があり、資格があるとうぬぼれていました。(略)ところが、寒くて薄暗い部屋で汚れた布団に寝ている半身不随の老人は、わたしのエゴイスティックで誇り高い自負心を一挙に萎縮させる展望であり、アメリカという競争社会で植えつけられた能力主義的価値意識を根底からゆさぶるものでした。
私がこのウェブサイトのページ上部にリンクしている「自分とは何か?」のテーマと重なる話である。人生の盛りにおいて得られる名声、権威、権力などは、いずれは崩れ去る運命の仮の「自分」に過ぎないが、調子に乗っているとそのことを忘れてしまい、その分、後で精神的に痛い思いを経験することになる。その典型が若くして人気を集める芸能人やスポーツ選手である。過去の栄光にしがみついて醜態をさらす人を、私は何人か見てきた。
次に、こうした行動の背景にある精神面での痴呆とは何かであるが、それを深く理解するために重要なヒントがいくつか書いてある。老人施設などでの観察の結果「認知能力が衰えた老人は敵と味方を峻別する」という経験則が得られたという。つまり、陰謀論のような善悪二元論に陥りやすくなるということであり、まさに今の私の状態である。そして、老化とは「つながりを失っていく過程」と解釈することも可能とある。
わたしたちが理解する「私」とは、名前、年齢、家族、職業などいわば属性や社会的関係、さらに自分の交友や過去の歴史がつながった「結節点」です。それらをつなげているのは、いうまでもなく記憶です。しかし、それらのつながりによって結ばれた「私」は、この世とあの世が入り混じった幽明界では、解けほどけていくような印象を与えます。
伝統的にボケた老人を神々に近づいた人々として敬う習俗もあるという。更に臨床心理学の久保田美法氏の引用で、
人が生を受け、名前を与えられ、言葉を覚え、「他ならぬこの私」の人生をつくっていくのとは反対の方向にあると言えるだろう。ひとつのまとまりのあった形が解体され散らばっていく方向に、痴呆の言葉はある。それは文字通り、ゆっくりと「土に還っていく」自然な過程の一つとも言えるのではないだろうか。
私も殆ど社会とのつながりを失っており、この記述が実によく当てはまる。どうやら痴呆とは、我々が誕生後に家庭や学校の教育、マスコミなどを通じて埋め込まれた、この現実社会独特の錯覚が解除されていく過程のことのようであり、いよいよ私は痴呆老人だったのだと確信めいたものが芽生えてきた。
しかし、そうは言っても、大部分の痴呆老人がそうであるように、私も自分が痴呆老人だとは認めたくない。読者の皆様も痴呆老人の書いたものや翻訳したものを読んでいるとはショックであり、認めたくないはずだ。この認知的不協和(Cognitive Dissonance)を解消するため、次に痴呆老人と私の違いを探してみた。
痴呆老人は「私」を失っていきつつも、完全に「私」を失ってワンネスに溶け合うわけではなく、極限まで(生命維持不能になる手前まで)「私」が縮小・孤立している。これは「テリトリー(縄張り)」意識とも関係するが、
認知症が進行すると、《私》の縮小が伴います。認知能力が低下し、《私》つまり「私のもの」と他のものとの意味関係が認識できなくなるからです。施設の風呂場で介護者が老人の手ぬぐいで身体を洗ってあげようとすると、手ぬぐいを盗られたという被害妄想を抱くことがあります。
こうして自分が縮小すればするほど、周囲が全て敵になっていく。ものごとの「意味」(=つながり、関係性)を失うことで、孤立していく。間違った「意味」でつながっているよりは、つながりを失う方が良いとも言える。だが、我々は頭脳明晰な内に、間違った「意味」でのつながりを捨て、正しい「意味」でつながり直さなければならないと私は思う。単純に年老いてボケれば良いというものではない。単純にボケるだけなら、再び「意味」を失った状態で生まれ、錯覚の「意味」を築き、再びボケて「意味」を失うという、同じような人生を繰り返すだけになるだろう。もちろん、それで良いならば、良いのである。良くないなら良くない。
「穏やか」な社会
こうして自分が縮小し、周囲が敵だらけになると、当然ながら争い・不和が頻発するはずである。実際に先述のように暴力的になる。しかし、さらに面白いことに、痴呆老人の社会は「穏やか」であるという。この矛盾した状態を理解するには、次のエピソードが有益だろう。二人の痴呆老人の女性が同時に、一人の痴呆老人の男性を元の夫だと錯覚しているケースである。
自分の夫と思いこんでいる男性と別の女性が仲良くしている(この女性も自分は彼の妻だと思いこんでいる)のに、「夫の昔の妾が金を無心にきている」と言うだけで、テレビドラマのような派手な立ち回りはありません。(略)それは、この虚構の人間関係を壊してしまうことは、「感情において自分をしっかりと確認させてくれる妻や夫」という存在を失うことに他ならないからである。「痴呆老人たちは、よく知っているのだろう。深入りすれば、せっかく作り上げたバーチャル・リアリティの世界が消滅してしまう」(阿保順子氏)
我々には、五感と表層意識の他に、深層意識のマナ識、アーラヤ識があり、痴呆老人になっても、生命維持の根幹を担うアーラヤ識は機能しているようだ。これは「爬虫類脳」に相当する脳の部分と関連があるのだろう。つまり、生命の維持を脅かされるのではないかという恐怖には囚われたままである。だから、痴呆老人とはいえども、その自らの錯覚の範囲内での合理性に照らし合わせ、無駄に生命を危険にさらす暴力行為はしない。この内面に不満を抱えつつも、表向きは平穏を装う社会とは、現在の社会そのものではなかろうか。
自分=記憶(メモリ)
「自分とは何か?」において論理的に帰結したように、我々の正体は「情報」であり、それが「アーラヤ識」と呼ばれているようだ。
アーラヤ識が世界を仮構する働きは、情報の種子(しゅうじ)として蓄えられます。アーラヤ識は「情報集積体」とも意訳されます(略)行為は種子として記憶され、記憶はすぐに次の行為に影響するのです。
宇宙の多次元構造であるとか、霊界にもいろいろ階層があるなどと、ややこしい議論を好む人がいるが、細かく分けていけばきりがない。それに対して、根本だけわかればよしとするならば、霊能力などなくとも、論理的に突き詰めればわかる話である。
ただし、人間には人間の知覚しかないから、考えれば考えるほど、人間の知覚に束縛され、その束縛されていること自体に気付かなくなる。深い迷妄である。
生物は環境中の無数の潜在的刺激のうちから、その生物固有の受容器(リセプター)に合うものだけを選択的にとり出して反応する。合わない刺激は無意味であって、存在しないのと同じです。
「外界で見るもの、聞くもの、触れるものが現実を構成している、とヒトは考えている。だが脳は、その知覚することを過去の経験に基づいて組み立てている」(ハーバード大学の神経生理・心理学教授スティーブン・コスリン)
神経システムは、外部からの刺激を受容してそれに対応した反応をするのではなく、むしろそれ自身の能動的活動によって視覚像を構成するところが大きいのです。
真理を知りたいならば、我々はこうした生物共通の制約を受けていることを踏まえておく必要がある。それを自覚していなければ、思考は堂々巡りし、言葉遊びに終始するようになる。人間の生物的特徴は、言葉をもて遊ぶことだ。それは必ずしも悪いことではないが、普遍的な真理を理解したいときには邪魔になる。とことん考えた上で思考を放棄すること、あるいは、いかに五感を除去して考えることができるかがポイントになる。
人間には、相対的に他の人よりも知っていると自惚れることで満足できる習性がある。例えば、いわゆる霊感を備え、予知や遠隔透視など、普通の人には知覚できないことができると、それだけのことで得意になって宗教団体を作ってしまったりする。一説によると、人間が知覚できるこの現実、つまり可視光線領域(色即是空の「色」である)は、宇宙全体の0.005%(電磁スペクトラム)の更に一部だそうだ。単純化して普通の人間が0.005%を知覚できるとして、霊能者が0.006%を知覚できるなら、普通の人間と比べると2割も広い世界を知覚できることになる。それで得意になるのも無理はないが、それでも宇宙全体からすると極微なことには変わりないのである。
それよりも本質的・実用的に大事なのは絶対的な知があるかどうかである。自分に絶対的な知があるかどうかは、他人に承認・確認してもらう必要はなく、自分が絶対的な安心の境地にいるかどうかで確認できる。それは考えたり、本を読んだりするだけで得られるものではない。あまりにも単純なために難解なのである。
我々の実体は「情報集積体」であり、我々の個別意識とはハードディスク上にあるフォルダの名称のようなものだ。そのフォルダをさらに細分化したり、他の個別意識と共有フォルダにしたりして、複数の人格を備えることもできる。
「対する相手の数だけ人格が変わる」(アメリカの精神科医H・S・サリヴァン)
わたしたちは、人間にはひとつの人格があることを当然視していますが、人類史的には人格の単一化は比較的新しい、と中井久夫・山口昌彦の両氏は論考しています。
アーラヤ識は生命に執着するからこそ、生命維持のためには人格を換え、自我意識を換えることさえいとわないのです。
我々はこの現実世界に生を受けることで、新しい「情報」を収集し、自分自身を「更新」している。それが人生経験である。人との出会いとは、その「情報」を交換・共有することである。老人痴呆になるということは、新たな情報の収集活動が殆ど停止したということだろう。だが、周囲の人々に新しい発見(情報)をもたらす意味はある。冒頭に引用した話(痴呆老人の孤独な姿が著者の価値観を崩壊させた)のようにである。
「私は生きている」のではなく「いのちが私をしている」
両極端は表面的には似ていることが多い。痴呆老人とは、個別意識で究極まで分離・孤立したロボット人間の成れの果ての姿である。対して、我々に必要なのは、健康で頭脳明晰な状態のままボケること(覚醒)なのである。
老人痴呆の原因については、この本は、医学界の主流である症状的な解説(脳組織変性・脳血管障害)をしているだけで、その主因は高血圧(これも原因ではなく症状だ)や塩分の取りすぎ、動物性たんぱくの不足などと書いている。
だが、老人痴呆の本当の原因は、食品、医薬品、環境中の化学物質だろう。もっと特定すれば農薬散布ではないかと思う。有吉佐和子の『恍惚の人』(1972年)と『複合汚染』(1974年)が同時代に書かれることになったのは偶然ではないだろう。年を取れば、ガンになり、ボケるものだと、我々は思いこまされている。そんなバカな話はない。認知症は長寿化により不可避的に発生したものではない。我々の意志で選んだ状態(今、選んでいる状態)なのである。
ガンになり痴呆になって醜態をさらして人生を終えるか、それとも、最後まで頭脳明晰なまま自らの死期を悟って往生を遂げるか、それは食べ物の選択など我々が今の日常生活に対して自分の意志で決めることである。
そしてそれは、精神的に分離・孤立した痴呆老人の大勢をやはり精神的に疲弊した大勢の人々で介護する社会と、全ての人が相互のつながりを感じながら自律的に行動する社会と、どっちを望むのかという選択の問題でもある。いくら神々に近い存在と美化してみたところで、痴呆老人だけで社会は成立しないだろう。それとセットで介護する人々が必要になるわけである。
関連情報
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